1933年 |
昭和8年 |
徳之助(68才)4月東京人絹吉原工場内睡鴨園に従業員一同から寿像を贈られた。
5月、吉原市に東京人絹織布株式会社を設立。
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1934年 |
昭和9年 |
町田絲店は創業70年になった。前年皇太子の誕生もあり、大いに感激し、私財
100万円を投じ、かつ品川邸内の土地2千坪を寄附して、町田報徳会(男子3年制商業学校)を設立した。
(2月申請、9月文部大臣認可) |
1935年 |
昭和10年 |
徳之助(70才)は、3、4月の頃、妻子並びに嵯峨老母を伴い、京都より九州各地へ旅行した。
4月 町田報徳学舎の新校舎が落成し、第1回の入学生を迎えた。
8月 財団法人池田奨学会理事となる。
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1936年 |
昭和11年
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徳之助(71才)1月 鳩山春子氏等の共立女子学園評議員兼監事に迎えられた。
3月には興禅護国会を再興、会長に推された。
9月 東京貯蔵株式会社(貯蔵銀行の合併記念)を設立した。
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1937年
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昭和12年
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4月17日 先代の50周年忌法要を品川邸にて営む。
4月、かねて建設中の東京人絹沼津工場(現フジクラ沼津事務所)完成。スフの
専門工場で日産30トン。自家発電、廃液処理設備、薬品自給体制(硫酸、二硫化
炭素)を備える。
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1938年 |
昭和13年 |
徳之助(73才)吉原市(現在富士市)田子の浦に東海工業学舎を設立する。
東京の町田報徳学舎の商業教育に対して工業校とする。(現在静岡県立吉原工業
高等学校)
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1939年 |
昭和14年 |
徳之助(74才)政府の方針で卸小売の兼営が不可能になり、町田絲店の卸部門を
独立させ、11月に町田商事株式会社を設立する。(取締役町田三郎、三島定雄、
石井種一郎等)資本金19万5千円。
また国策の線に沿い、逗子町桜山に東洋パラシュート(株)を興す。敷地3千坪、工場550坪。社長徳之助、重役に田中文三、武藤彦太郎(逗子の人)石井種一郎等を当てる。工員男女約200名。なおその下請け作業のため、天竜工業(浜松市)鶴川製紐(町田市)等も経営する。
東洋パラシュートは後に福島県川俣にも工場を持つ。この頃店員の応召、徴用多く、人手不足となる。
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1940年 |
昭和15年 |
徳治(25才)は4月下郷寿子(当時の東京人絹社長下郷豊彦の長女、21才)と結
婚し、町田系各社の重役となり、通勤し始める。
町田絲店創業77年につき勤続者を表彰する。
石井種一郎(26年)渡辺綱(25年)向田善作(25年)槇島彦太郎(24年)中村
光一(23年)鹿島田勝雄(22年)藤掛金吾(22年)三島定雄(17年)蔦岡元一
郎(16年)住正二郎(14年)、児玉直昌(9年)等の名があった。
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1941年 |
昭和16年 |
徳之助(76才)町田商事は戦時統制により、日本綿縫糸、日本絹縫糸両統制会社
の指定配給所になる。また両社に役員として三島定雄、内田真司が送られた。
徳治長男保徳生まれる。(7月)
10月、浅草商工育英会を設立する。
7月、徳之助妻幾久子の父嵯峨公勝氏死去。
企業整備により東京人絹(株)解散。
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1942年 |
昭和17年 |
手編毛糸の配給統制機関として手編毛糸配給統制株式会社(資本金300万円)が
創立された。町田商事は950株の株主となる。
町田絲店は浅草第二衣料配給所として指定される。
徳治二男 治郎生まれる。(10月)
繊維製品の販売禁止と配給切符制
太平洋戦争に入ると繊維製品の販売は禁止されて、1942年2月には「繊維製品配給統制規則」によって衣類の総合的な配給切符制が実施されました。
この衣料切符の点数は2種類あり、甲は郡部で1人当たり一律80点、乙は都市(市制施行地を主体とする)で100点と決められていました。
衣料の品目別点数をかいつまんで紹介すると〈背広三揃 50点〉〈男子外套 50点〉〈レインコート 30点〉〈婦人服ワンピース 15点〉〈もんぺ 10点〉〈シャツ長袖 12点〉〈毛糸 2点〉〈縫い糸 1点〉等となっていました。
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1943年 |
昭和18年 |
7月、黒船町11番地は台東区浅草駒形1丁目1番地となる。
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